鳥類的雑記帳

色々と思っている事を書き連ねていくつもりです。

【読書感想文】日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で(水村美苗)

 ずいぶん前に話題になったエッセイ本。何年も前から持ってたんだけど、読み始めては途中で挫折してた。この度、ようやく読み終えた。

 近代文学がとにかく好きな小説家の作者が、日本語の行く末について、英語がどんだけ勢力を持っているのか、近代文学がどれくらい凄かったか、といったことを回想しつつ、「日本語はもうあかんかもね」と言っていた。身も蓋もない要約の仕方だけどそうとしか言えない。それでも説得力ある部分はあるし、作者がそう叫びたくなる気持ちもよくわかる。

 

 ネットを中心に賛否両論になったらしく、今でもタイトルで検索をかけるとたくさんの書評を見れる。賛否のどちらも持論を展開する形になっているものが多く見えて、ただしく賛否両「論」巻き起こしたらしい。後になって眺めてみただけだから、くだらない感想はネットの闇に消えた可能性も否定できないけれど。

 賛否両論になっている部分も含めて、この本にはふたつの面があると思っている。ひとつはタイトル通りに日本語を憂いるという作者の感情的側面。一章と二章についてはその導入として、ほとんど私小説の体で語られている。その後の三、四、五章は作者がそう思った背景を歴史的な事実から俯瞰した内容であり、こちらがふたつ目の側面となる。さらに六と七章では再び作者の感情的側面に沿った持論が展開される。巻き起こった賛否両論についてはこれのどちらに寄るかでこの本の「良し」「悪し」がだいたい決まっていた。どっちつかずのものもある。

 個人的には全体的に作者の考えに納得しているのだが、それでも作者の近代文学愛が全面に出すぎているだけではないか、と首を傾げる部分もあった。だからだめ、というわけではない。ちょっと愛しすぎてて論が引っ張られてやしないかと心配になる、くらいなもんである。どっちにしろ歴史的側面とか文学論については寡聞にして存じ上げないので滅多なことは言わないでおくことにする。

 以下は、各章で感じた自分のざっくりした覚書。

 

 

 ・一章

 私小説パート。アイオワ大学のプログラムに招かれた作者が、様々な国から集められた人たちを見ながらその間にある隔絶とそれでも同じように「書いている」ことを見出した、という回顧録。ここの章はほとんど自己紹介だと思う。自分がどう感じる人間で、どういうきっかけでこういう本が作られているか、という「気持ち」のエッセンスが詰め込まれている。そういう意味では、この本はエッセイ集としてとても正直に思える。誤魔化さずに「こういう奴が書いてるからそれを念頭に置いてね!」と長々と告白してるんだから。

 単純に興味深く読んでいたが、この時点で節々から英語圏とそれ以外の非西洋語圏の格差が描かれていてちょっともたれる。英語ができるからこういう所に呼ばれるのか、ええなぁ、みたいなことを僻み混じりに思ったりする。

 ・二章

 私小説パート2。パリで作者が講演した時の内容が主たるもの。一章が自己紹介としたら、これは後の解説パートへの導入部といえる。この後で重要な概念である「普遍語」「現地語」「国語」のみっつを、現実的に「普遍語」から追い落とされた人達の前で語る。なかなか残酷なことをする、というか凄い度胸だなと思ってしまったが、これはこれで重要な示唆である。このフランスでの話が、結局はこの本で言いたかったことを端的にまとめているような気がした。歴史的経緯で言語の地位が決定するということ、普遍語というのは「読まれるべき言葉」であり何より知識人が使うものであること、そしてそれが交代したと認められた時にはすでに遅しということ。

 ちなみに自分はフランス語の地位がそんなに高かったということすら知らなかったので、そういうのが時代の移り変わりなのだろうと思う。もしかするとあと五十年くらいしたら英語もその地位を失って、たとえばエスペラント語とかが台頭しているのかもしれない。どうなったらそうなるかはまったく想像できないけども。

 ・三章

 ようやく持論を展開するパートに入る。「普遍語」「現地語」「国語」という概念を世界での文学成立の歴史を置いながら整理する。これも後半への布石であり、ここまでまだ準備段階でしかない。ただ、非常に面白くて一貫して評価の高いパートはここからの三章ではないだろうか。

 後で作者が言うように、「書き言葉」の成立は決して「話し言葉を書き留めた」ものではない、という内容から始まっている。むしろ書き言葉というのは歴史の大部分で知識人が「人類の叡智」にアクセスするための道具であり、話し言葉とは切り離されていたことが強調される。それが西洋ではラテン語であり、東洋では漢文だったりサンスクリット語だったりする。これらが「普遍語」と言われ、どんな土地であろうとその文字さえ学べば巨大な知恵の集積にたどり着けるという利点がある。

 余談だけど、たしかこの章で「実際に持ち運ぶことなど出来ない絵画や彫刻と違い、文字は巻物に書き写せば大量にどこへでも持ち運べる」という意味合いの文があり、それが書き言葉を決定的に重要なものにしたと述べられていた。なかなかハッとさせられる文章である。インターネットのごくごく一部の界隈でだけど、それに近い現象があった。インターネット創作、特に二次創作でのSS文化の台頭である。Kanonだとかエヴァの二次創作SSが大量に書かれ、PixivのようなSNSもない時代のネット孤島である個人HPたちを繋ぐ役割をしていた。「普遍語」ならぬ「普遍ジャンル」である。今のイラスト大正義時代と比べてその当時にSSが流行った理由としては、ツールが満足に普及していなかったからという論がある。今のクリスタだのSAIみたいに充実したツールが少なくまた出回っておらず、なによりもインターネット回線が脆弱で画像データの伝送は一般ユーザーにはなかなかヘビィだった。そこにきてもSSはとにかく軽い。せいぜいが数百キロバイト、書くにも最低限テキストエディタがあればいいし、ちょっと凝ったツールだってそんなに重くなくて入手もしやすかった。なのでイラストより先にSSが充実し、ツールが追いついてきた今の時代はイラストが充実するようになった、という話である。文字は気軽に移して持ち運べる、といった内容からはちょっとそれるけども、現代においてだって文字の手軽さがひとつの文化を作り出す助けになるという例かもしれない。

 話は戻って、グーテンベルク印刷が出て活字技術が一気に花開くと、その普遍語が次々に「現地語」へ訳され知識階級とは呼び難い人たちへも普及するという話。ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」を元に展開される。特に二重言語者によって翻訳されることの重要性が繰り返し説かれ、そこから「国語」の発展につながっていく。国語というのは翻訳を通して成立するもので、現地語が自分たちの言葉として美的・学術的に重要な位置にまで高められることを言う。日本のように、自然科学においてさえ日本語の記述による名著がたくさん書かれ、さらに近代文学が成立することで国語と呼べるものになっていく。

 このあたりの歴史的経緯は非常に読み応えがある。

 ・四章

 三章を受けて、じゃあ日本はどうだったの、というパートに入っていく。忘れちゃいけないのが日本語だって漢文から派生したもので、平仮名や片仮名の成立だってその歴史の中にあるんだぞ、という内容。日本でだって長い間、漢文こそ「普遍語」であってそれを勉強することが日本の知識人の教養だった。特に日本で重要なのが翻訳というもので、古くは漢文やオランダ語、そして近代では英語やフランス語の文献の翻訳が何より重要だった、ということがつらつら語られている。

 翻訳という文化の重要性が語られることもさることながら、福沢諭吉の活動ぶりである。蘭学をそれこそ血の滲むような努力で修めたのにまったく役に立たなかったけど、まるで狼狽えずに英語へ行くのはもう頭が下がり続ける。さすが一万円札。さすがにもうちっとこの辺は勉強しようかなと反省した次第である。

 このあたりから、「自分も英語を嫌ってるだけではあかんな」と思い始める。

 ・五章

 さらに一歩踏み込んでの、日本近代文学成立に関して。特に漱石三四郎をメインで語られているのは、作者の近代文学愛の為せる技だと思う。ここではさらに明治の日本がどれだけ西洋文献の翻訳を重要視し、大学がその役割を担っていたかが語られている。ここに至ってもまだ日本の学問は西洋の言葉を翻訳することが主な業務で、ここから文豪たちが一斉に出現することで「日本語でも」学問ができる状況が整っていく。つまり国語として成立していく、という話である。なるほど、言われてみればあの時代で有名な作家の著作で学者といえば、とにかく西洋の本を読んで翻訳したことを語っているイメージがあったけど、そういうことなのかと納得する。自分がなかなか恵まれた位置にいるのだということも感じずにはいられない。

 ここではまだ強調されていないけれど、それでも英語を翻訳することの重要性、とみに「普遍語」ができることが知識人として重要であることが明確にわかってくる。どうあれその言葉でかかれた図書館に入らなければ、人類の叡智に至れないのである。そのことはいかに不勉強な学生であった自分としても痛いほど痛感していて、その言葉が英語に集約していった事情が次の章で語られている。

 ・六章

 持論混じりではあるが歴史的な経緯が語られていた前のパートまでだが、ここからは一転して作者の思いが強く前へ出てくる。賛否両論を巻き起こすのは、だいたいここと七章に語られているような部分だろう。

 インターネットによって英語が世界を支配してしまっている、という内容だが、前の三章に比べてここは退屈。言われてる内容の是非を問うつもりはないが、読み物としてはちょっと劣るように思えてしまうのも否な印象を強めている気がする。

 英語が加速度的に世界へ蔓延していって、あまりに強大な力を持っている、というのは自分も感じられる。たとえばよく言われる例としては、自然科学の解説における英語版Wikipediaと日本語版Wikipediaの内容の差である。圧倒的に英語版の方が記事が充実している。項目が、という単純な話ではない。その中に書かれている内容だって雲泥の差である。日本語だとごくごく簡単に語られている項目が、英語版を見ると非常にたくさんの例を引きながら解説されている、といったことがほとんどだ。学部生のはじめのほうのレポートならこれを翻訳すれば事足りそうなレベルである。そういう格差こそ普遍語と現地語の差なのかもしれない。

 それはともかく、ネット上でいらぬ喧嘩をふっかけたと思われる部分を象徴する部分がこの賞にはあって「今の時代に漱石が生まれてたら、少なくとも日本語では書かないだろうね」と言ってる部分がある。ここ以外にも、たとえば一章ラストあたりで、作者はとにかく今の日本文学の惨状を嘆いている。こんな本を好き好んで読むような読書家からすればそりゃもうケンカを売られたと思うような内容だろう。一応、文庫版でよせられた後書きには喧嘩を売る意図はなかったと書いてるけど、さすがにもうちょっと素直になっていいと思う。昔のレベルの高さに比べて今の書店に溢れてる本の杜撰さはなんだよ!っていう叫びがこの本のあちこちから聞こえてきている。これはもう、下手に取り繕わないほうがマシだ。

 今の文芸が漱石たちのような近代文学より「良い」か「悪い」かの話は自分ではできないけれど、それでも「漱石のような人間が現代で文学をすることはないだろうな」とは思ってしまう。明治の時代の文学にあったイデオロギーと、現代のそれは種別が違うように感じるのだ。少なくとも、現代版漱石の著作が、紀伊國屋書店の一般文芸の棚にあるとはどうしても想像できない。新書でなにやら持論を展開するか、あるいは作者の言うように英語で書くのかもしれない。

 ・七章

 で、ようやく日本語が亡びる話になる。ここまでは前座なのか、と思えるけど、その前座がたいそう面白かったので言わぬが花である。

 ここでは日本語の国語教育のだめっぽりを嘆きつつ、英語を止められないことも悲しんでいる。なんというか、六章もだけどこのあたりはかなり俗っぽい嘆きの内容に思われた。それでも国語教育を改定すべきという気持ちは自分も感じるところである。せっかく話に引き込まれてくるあたりでぶった切られると白ける感覚を、誰でも一度は味わったことがあるのではないだろうか。

 それでなくても、これは実体験としてだが、やはり本を読むことによって学力が上昇するのである。これは、たとえば「AI vs 教科書が読めない子どもたち」でも言われていることなのだが、「勉強するためにはまず書き言葉が読める必要がある」という当たり前の事実があるからだ。もちろん読めるというのは、音読できるという狭い意味ではない。その内容を自分のものとして受け入れて、かつそれを吟味することができるようになることである。この作者が言うところの「国語」としての能力である。思い出すのは、小学生の自分は算数の文章題がとにかく苦手で母親に怒鳴られていたもんである。それが今やブログやら拙い小説やらを書いて、自然科学の参考書だって読める。こうなるきっかけというほどのものではないが、明らかに自分の学校の成績が向上するタイミングというのが、本を読むことにハマった時期とだいたい一致するのだ。特に高校時代が顕著で、一時期とにかく図書館の本を読み漁った時期がある。そのおかげで現代文と現代社会なんて勉強せずとも点が取れた。教科書の内容をじっくり解読できるようにもなった。弟が馬鹿正直に答えを暗記しているのを見て「解説読めば類似問題だって解けるのに」と思ってたことも思い出す。

 まぁ要するに、「文章を読む」能力というのは一朝一夕には上がらないので、国をあげて取り組むしかないという意見には大いに賛成するところだ。それが果たして日本語であるべきか、あるいは英語であるべきかはわからない。せっかくここまで積み上げた日本語を守ろうという気持ちはわかるし、今後の世界情勢を考えると英語強化したほうがいいという論もわかる。あえて言うなら、自分も「全国民バイリンガル」という線は現実的ではないだろうと思う。今の日本語ですら異常に出来ない人はいるし、それはもう仕方ないことなのだ。だから困難を全体には引き入れず、一部の人の専門としてもらいたい。そういう所に翻訳家や学芸員たちの居場所があるように感じる。

 これに関連して、文庫版のあとがきでは非西洋語で学問をする科学者たちの苦悩に触れられている部分がある。これも自分にはよくわかる。どこかの研究でも明確化されていたが、そもそも微妙な思考は「母語」でしかできないのだ。英語を会社の公用語にしようという取り組みへの反対意見としてもっとも取り上げられる類の話だろうが、それもやむなしに思う。セミリンガルという、バイリンガルの教育をしようとして結局どっちの言葉ですら思考することが難しくなってしまった子供という問題もある。英語を選ぶにせよ日本語を選ぶにせよ、中途半端はいけない。思考言語は都合よく切り替えられないので、それをわかった上で二重言語者として生きるほかないと思う。

 

 

 後半はほとんど作者の「今の小説家のなんたることか!」という叫びが聞こえるようで、そのあたりが顰蹙を買っているのだろうけど、個人的には中盤の歴史解説パートだけでも読む価値はあると思う。自分の言語を考える上で、重要な示唆が含まれているように思うのだ。

 特に書き言葉は自然に覚えるものではなく、学習を通して成長するしかないという点。自分も話し言葉が書き言葉になったという、表音文字主義に毒されていたということは反省した。今の小説、それこそライトノベルだとかゲームのシナリオ文芸においてはその色は強いけれど、それでも日本語という書き言葉の成立は表音ではない。仕事でも口の回る後輩が「文章を書けない」と言っていることからも、それは正しい見方だと思える。自分の体験としても、大学教授にとにかく文章をめったくそにぶっ叩かれて成長したのだ。「話し言葉をそのまま書いてもいい文章にはならない」ということは常に念頭に置いておきたい。

 もうひとつ個人的な反省点と言うか、ハッとさせられたことがある。作者の「たかが百年前の言葉ですら読めない人が大多数になってしまっている」というところだ。百年も経っていない戦中の文章すら読めない、と最近Twitterで話題になってたことも合わせて思い出す。なるほど、その変化の是非はともかく、そういう変化はあるのだなと実感した。たしかに歴史の目から見れば百年前の言葉も文化も触れられないのはなかなか異常だ。西洋圏ではそんなことあるはずもないのに。

 この本は今の時代の小説を愛する人達には、本当に不快な本に思えるかもしれない。それくらい作者の近代文学愛が鼻につくときがある。言葉は生きているように変化しないかもしれないが、文学の形は変化するように思うからだ。技術爆発によって明治と現代では人間の生活様式が変わってしまっている。それなら、あの明治のような文芸小説が出てこなくても当たり前ではないか、ということは言っていきたい。

 それでも近代文学にあった良さというものが現代では失われている、という思いが理解できないでもない。残念ながら自分はそれがどこかと具体化することはできないのだが、今でも川端康成などの文章を読めば、やはり得体のしれない力を感じる。これはたんに古典をありがたがる人間の錯覚かもしれない。現代の文芸から読み取る感覚を自分が持ってないだけかもしれない。ただそれでも「なにか違うな」という思いは捨てきれない。

 けれどこの作者から言わせれば、自分みたいなネットの隅っこで駄文を書き散らす物書きなぞは、それこそ日本語を滅ぼす側なのではなかろうか。もちろんそんなつもりはないけれど、なら日本語という言葉を使うことに真摯であるかと問われれば答えに窮してしまう。そんな必要はない、と言う人もいるだろう。けれど自分は、そういう問いにはきちんと答えたいと思う。結果的に日本語を滅ぼす手伝いになるとしても、やはり日本語で「書く」ということについては常に考え続ける義務を負っているように感じられるからだ。

 言葉で書き言葉で伝える、という行為の真髄は、そのことについて思考し続けなければ得られないはずだ。